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幻の初恋

第1話 都会の少女

 ソウ・レンは、ハン国トンサン市の地方官吏の次男で、今年十三歳になる少年だ。父と母、兄、弟の五人家族で、貧しくはないが決して裕福でもなく、質素で慎ましい暮らしを送っていた。
 ある日、父が家に一人の少女を連れて帰って来た。父は家族に、しばらくの間その子を家で預かる事になったと説明した。男三人の兄弟で育ったレンにとって、自分と同じぐらいの年齢の女の子が家にいるというのは、なんだか不思議な気分だった。
 少女はケイと言い、レンよりも一つ年上だった。父は、特に年齢の近いレンに、ケイを気に掛けてあげるようにと言いつけた。
 ケイは、肌の色が白く、髪に艶があり、着ている服が小綺麗で、都会から来た子である事が一目瞭然だった。この近所ではまず見ないタイプの女の子だったから、レンは新鮮さを覚えた。目に力があり、賢そうな顔立ちをしている。しかし、表情が暗く、覇気が感じられない。こういう雰囲気も、近所の子供たちからは感じた事の無いものだったから、レンはケイが気になって仕方がなかった。
 その日の晩、ケイはソウ家の家族と食卓を囲んだが、食事に手を付ける事はほとんどなかった。普段、レン達兄弟が食事を残すと叱る両親だったが、ケイに対しては何も言う事はなかった。他人の子だから、なかなか叱る事はできないのかもしれない。
 ケイは、兄弟三人と同じ部屋で寝る事となった。元々それほど広くない部屋だから、一人増えてかなり密集している。女の子が男の子に囲まれて寝るのは嫌だろうなとは思いつつ、他に部屋が無いから仕方がなかった。
 夜中になっても、ケイはなかなか眠れないのか、たまに微かに動いていた。
 レンは小声でケイに話し掛けた。
「眠れないの?」
 ケイはレンに背中を向けたまま、「うん」と短く答えた。
「やっぱ、狭いよな」
「慣れないから」
「そっか。夕飯全然食べてなかったけど、お腹減らない?」
「大丈夫」
「うちの飯、まずかった?」
「…………」
「いいよ、ほんとの事言って。何なら食べられそうかなって思ってさ」
「慣れれば大丈夫だから」
「そっか……。ケイは都から来たの?」
「…………」
 ケイが答えなかったから、レンはうるさく思われたのだろうかと思った。
「ごめん。色々訊いて」
「ううん」
「疲れてるよな。おやすみ」
「……おやすみ」
 翌日、レンは弟や近所の子供たちと川へ遊びに行く際、一緒に行こうとケイを誘った。都会の子だし、女の子だから断られるかと思ったが、ケイはレンたちについて来た。
 レンたちは着物の裾を捲り、川に足を付けて遊び始めたが、ケイは川には入らず、川辺に座ってレンたちが遊ぶのを眺めていた。レンは、川の中に石を積み、小さな囲いを作って、その中に捕まえた沢蟹を入れた。そして、ケイを手招いた。
「蟹捕まえたから見てみろよ」
 ケイは寄って来て、囲いの中を覗き込んだ。
「ほんとだ。小さい」
 ケイが少し興味を示したから、レンはうれしくなって、
「もっと捕まえて来るから」と言って、再び川の中を歩いて行った。
 ケイは、レンが捕まえてきた沢蟹を川辺に屈んでずっと眺めていた。
 その翌日は、山に登った。弟を始め、近所の子たちは、木の棒を手に持ち、それを剣のように振りながら、元気よく山を駆け上っていった。ケイはおとなしく、レンの後からついて来た。レンは時々ケイを振り返りながら、
「大丈夫?」と声を掛けた。その度に、ケイは小さく頷いた。
 途中で山ぶどうの木を見つけたから、レンは実を取ってケイに差し出した。
「食べてみなよ」
 ケイは山ぶどうをレンから受け取り、少し戸惑いつつも一粒口に運んだ。ケイがぶどうを飲み込んだのを確認してから、レンは、
「どう?」とケイに尋ねた。
 ケイは、「おいしい」と答えた。
 レンはうれしくなって、食べごろの山ぶどうを次々に採ると、ケイに渡した。
「これじゃ腹いっぱいにはならないけど、何も食べないよりマシだろ?」
「うん」
 ケイは、レンから渡された山ぶどうをつまみながら、レンの後について山を登っていった。
 そんな風に、毎日あちこち遊びに行きながら、レンはケイと少しずつ話ができるようになっていった。ケイが言葉で答えてくれたり、レンがした事に反応してくれたりすると、レンはうれしい気持ちになった。
 ケイはたまに、家で書物を読む事もあった。レンはそれを隣から覗き込んだが、細かい文字がたくさん書かれていて、難しそうな書物だった。
「いつも、難しそうな本読んでるよな」
 レンが言うと、ケイが、
「レンは、字は読めるの?」
と訊いてきた。レンは、
「うん。読めるよ」と答えた。
 レンは父から読み書きを教わっていた。ソウ家の子供たちは、全員読み書きができる。それは、地方の子にしては珍しい事だった。
 すると、ケイが、脇に積み重ねていた書物の中から一冊を取り出し、レンに差し出した。
「じゃあ、レンも読んでみる?」
「え? いいの?」
「うん。初めて読むなら、それが一番良いと思う」
「ありがとう」
 レンはケイから書物を受け取った。
 ケイが自分に何かを貸してくれた事が、レンにはうれしかった。少しは自分を信頼してくれるようになったのかなと思えるからだ。
 レンは、ケイの隣でその書物を読み始めた。ケイが読んでいる書物よりは文字が大きく、ページ数も少ない。レンは早々にその書物を読み終えた。
「読み終わったよ。ありがとう」
 レンが書物をケイに返すと、ケイが驚いた様子で顔を上げた。
「もう読んだの?」
「うん」
「どうだった?」
「犯した過ちを改めない事こそ本当の過ちだ、みたいな事書いてあっただろ? 短いけど、深い言葉だよな」
 ケイが興味深そうに、レンの方に身を乗り出した。
「どうして?」
「だってそれって、過ちを犯す事自体は肯定してるって事だろ? 過ちは誰でも犯すものだってのが根底にあるんだなって思ってさ。なんか、ちょっと勇気づけられるところもあるし。ああ、やっちゃったって思うような事があっても、改めればいいんだって思えたら、気分が軽くなるなって思ってさ」
「ハハっ」
 ケイが笑い声を上げた。
「何だよ?」
「レンって、すごい善人なんだね」
「それって、褒めてる?」
「うん。褒めてるよ。じゃあ、次はこれを読んでみなよ。さっきのよりは少し難しいけど」
「ああ、ありがとう」
 レンは、ケイが差し出した書物を受け取った。
 それからというもの、レンはケイから様々な書物を借りて読むようになった。読みながら、その書物の内容についてケイに教えてもらったり、時には議論したりした。読むごとに新たな発見があるから、レンは書物を読むのが楽しみになった。
 そして、その頃からケイのレンに対する態度が大きく変わった。まず、ケイの方から積極的にレンに話し掛けて来るようになった。そして、以前はレンが他の子と遊ぶのについて来るだけだったのに、ケイの方から、今日はあそこへ行こう、ここへ行こうと、レンを誘ってくるようになった。だから、レンはケイと二人きりで出掛ける事が多くなった。
「レン、今日は滝を見に行こう」
 ケイはそう言って、レンの手を握って引いた。
「うん」
 二人は手をつないで歩き出した。不思議な気分だった。兄弟や友だちと手をつなぐのとは違う。ケイと手をつないでいると、楽しくて気分が高揚した。
 二人は山を登り、小さな滝が見える場所に辿り着いた。
「見て。虹が見える」
 ケイが指さした先に、小さな虹が見えた。
「ほんとだ」
「レン、もっと近くに行こう」
「うん」
 二人は滝の側に行き、近くの岩場に横並びで座って滝を眺めた。
「私は滝が好きなんだ。レンは?」
「俺も好きだよ」
「滝の近くって、空気が違う気がするよね」
「うん。なんか、清々しい気持ちになる」
 レンは滝を見つめていたが、ふと横を見ると、ケイは滝の方ではなく、レンの方を見ていた。
 レンはケイに、「何?」と尋ねた。するとケイは、それには答えずに笑顔を浮かべて、レンの腕に自らの腕を回して、レンに寄り添うようにくっついてきた。
 ケイは全く感情を隠さない。それが恋愛感情なのかどうかは定かではないが、ケイがレンに好意を抱いているのは間違いなかった。初めて会った時、あんなに無表情だったのに、今はまるで別人のようだ。
《なんか、ケイって猫みたいだな》
 レンは内心、そんな事を思った。

© 2020 色葉ひたち

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