色葉ひたち
幻の初恋 番外編 ~ケイ視点~
第8話 取り戻した心
皇后を裁くというのは、国にとって大ごとだ。ケイは下準備を慎重に進めた。
しかし、秘密裏に事を進めていたはずが、皇后側に勘付かれてしまった。ある夜、皇后はジョ家の手を借り、宮廷から逃亡してしまったのだ。
ケイは、ジョ家が皇后を逃がしたのはゆゆしき事だと思った。これは反乱の序章だ。ジョ家は、皇后を捨てる道ではなく、国に反旗を翻す道を選んだのだ。
ケイは、皇后とジョ一家の行き先をつかむよう、すぐに命令を出した。やがて、宮廷中が騒然とした雰囲気となった。
《レンは大丈夫か?》
ケイは、そろそろレンもこの状況に気付く頃ではないかと思った。リョクが皇后の逃亡に手を貸して姿を消したと知ったら、取り乱すに違いない。
ケイはレンの事が心配になり、都省へと向かった。向かう途中、渡り廊下の柱にもたれかかり、座り込む人の姿が見えた。
《レン⁈》
ケイはそれがレンだと気付き、青ざめてレンの方へ走って行った。
ケイはレンの側にしゃがみこみ、レンの両腕をつかんで、
「レン!」と呼び掛けた。
レンは真っ青な顔をしていて、まったく反応がない。
ケイは辺りを見渡し、
「誰か!」と声を上げた。近づいてきた者たちに、
「急いで運べ! それから、主治医を呼べ!」と命じた。
とりあえず、以前側室が使っていた部屋へレンを運び入れ、寝台に寝かせた。主治医が来る間、ケイはレンの手を握り、祈るような気持ちでレンを見つめた。
《レン。早く目を覚ましてくれ》
ずっとレンの側についていたかったが、今はそういう状況ではない。ケイは、後ろ髪引かれる思いで、
「何かあったら、すぐに知らせをよこせ」と命令し、部屋を後にした。
しばらく、会議や各部署への指示などをこなしたが、どうしてもレンの事が心配で仕方がなかった。ケイはいてもたってもいられず、レンのいる部屋へと戻った。
ケイは、
「レンの様子はどうだ?」と言いながら、部屋に入った。
すると、レンは寝台の上で体を起こしていた。その姿を見て、ケイはほっと胸を撫でおろした。
主治医はケイに一礼し、
「もう心配はないかと思います」と言うと、部屋を出て行った。
部屋にはケイとレンの二人きりになった。
ケイは、寝台に駆け寄り、レンの手をつかんだ。
「良かった。気が付いたんだな。大丈夫か? 具合は? 気分はどうだ?」
レンの顔色はまだ良くなかった。
「大丈夫だ。俺は、倒れてたのか?」
「ああ。廊下でぐったりしていて、呼びかけても全然反応しなかった。本当にびっくりした……」
「ごめん……」
レンが目を伏せた。
とにかく、レンが無事だったことに、ケイは安堵した。
「レンが死ぬんじゃないかと心配したのはこれで二度目だ。もう勘弁してくれ」
「本当にごめん。そんな事より」
レンはケイの方に身を乗り出した。
「今宮廷内で何が起きてるんだ? 皇后陛下がいなくなったのは本当か?」
やはり、レンも状況を知ったのだとケイは思った。
「ああ。本当だ」
「皇后陛下に嫌疑が掛けられていたという噂があるらしいけど……。それも本当か?」
「ああ」
レンは息を呑んだ。
「それは、どんな嫌疑だ?」
ケイは、もうすべて分かっているとレンに伝えなければならないと思った。
「皇后は、過去に側室を殺害した可能性がある」
レンの顔色は増々青くなった。その表情から、すべてが思っていたとおりで間違いないと、ケイは確信した。
ケイは、
「驚かないのか?」と、レンに尋ねた。
「皇后陛下がそんな事をなさるだろうか……」
それでも、取り繕おうとするレンに、ケイは腹立たしさを覚えた。
「レン。もういい。もう全部分かっているから」
「…………」
レンは観念した様子だった。
「私も、皇后がそんな事をするとは信じられなかった。だけど、過去の事を調べ直すと、皇后が関与していたと思われる痕跡がいくつか見つかった。それに、それなら全部説明がつく。嫉妬のために側室を三人も殺すような皇后だ。もし、私の想い人がレンだと知れたら、レンも無事では済まなかっただろう。だから、ジョ・リョクはレンを守るためにレンの恋人を演じていたのだろう? そして、レンは、ジョ・リョクを守るために、ジョ・リョクの恋人を演じていたのだろう?」
「…………」
レンは目を伏せ、黙った。
ケイは寝台に顔を伏せた。
「頼む。もうこんな事はやめてくれ。もう全部分かったから、本当の事を言ってくれ」
「ケイ……」
顔を上げたケイに、今度はレンが頭を下げた。
「どうか、リョクを助けてくれないか」
ケイは驚いた。この期に及んで、レンの口から出る第一声はリョクの事なのか。
レンは頭を下げたまま、
「頼む。リョクを助けてくれ」とケイに懇願した。
ケイは、レンを見つめた。
「全部、私が言ったとおりだと認めるか?」
レンが顔を上げた。
「……認める。だけど、リョクは何も悪くない。リョクはいつだって俺を助けてくれた。だから、絶対にリョクを助けたい」
ケイはもう限界だと思った。早くはっきりさせてしまいたい。ケイは、レンの両腕をつかんだ。
「レンが好きなのは、私とジョ・リョク、どっちなんだ?」
レンは目を伏せ、小さな声で、
「ケイだ」と答えた。
その瞬間、ケイの心を覆っていた暗雲は一気に吹き飛んだ。ここに至るまで、どれほど長く苦しみ、思い悩んだ事か。
「レン!」
ケイはたまらずに、寝台に上がり、レンに勢いよく抱きついた。
「ちょっと、ケイ。痛い」
「ごめん。だってうれしくて」
レンはケイを引き離しながら、真剣な表情で、
「だから、俺の大事な親友を助けてくれないか?」と言った。
「レンの頼みならきいてあげたいけど、ジョ・リョクとジョ・ハクは皇后の逃亡に手を貸しているから、無罪放免は難しい」
「今、リョクたちがどこにいるのか、分かっているのか?」
その言葉に、レンは何かをしようとしているのではないかと、ケイは疑った。
「それを知ってどうするつもりだ」
「行って、リョクと話したい」
それを聞いて、ケイはとんでもないと思った。行ったらレンは二度と戻って来られなくなるかもしれない。ハクとスイはレンを利用しようとするかもしれないし、リョクがレンを離さない可能性だってある。
「絶対にダメだ!」
「頼む。投降するように、なんとか説得するから」
「家のために妹の罪を隠して、そのためにレンに偽の恋人を演じさせてたぐらいだ。簡単に家を捨てるわけがない」
ケイがこれまでにたまった鬱憤を吐き出すと、レンが気に障った様子で、
「そんな言い方するなよ。リョクは俺に恋人のフリをする事を強要していたわけじゃない」と言った。
「結果的に、同じことじゃないか」
「違う!」
「とにかく、絶対にだめだ! せっかく取り戻したのに、もう二度と手放したくない」
ケイは、レンを逃すまいと、強く抱きしめた。
レンはケイに、
「それなら、必ずリョクを助けると約束してくれるか? そしたら、俺はここにいるから。だから、リョクを、絶対に助けて欲しい」と訴えた。
「分かった。だから、レンは私の側を離れないでくれ」
レンを納得させるには、レンの言うとおりにするしかなかった。しかし、現実的にはリョクを助ける事は難しい。ジョ家が謀反を企てているのは間違いない。間違いない以上、それを看過する事は、ケイの立場上できるはずがなかった。
レンが、
「絶対だからな」とケイに念を押した。
ケイは胸が痛んだが、仕方がないと思った。
やらなければならない事がたくさんあったので、ケイはレンを部屋に残し、職務に戻った。そして、すべての指示や確認を終えると、ケイは再びレンのいる部屋へと戻った。
ケイが部屋に入ると、ちょうどレンが部屋を出ようとしているところだった。
ケイは驚いて、
「レン、どこへ行くんだ?」と尋ねた。
「だいぶ良くなったから、もう戻るよ」
レンの答えに、ケイは唖然とした。レンはもう、ずっとここにいてくれるものだと思っていた。
ケイはレンの腕をつかんで、レンを部屋の中へ押し戻し、扉を閉めた。そして、
「なんで戻るんだ? ここにいるって言ったじゃないか」と言った。
「ここにいるっていうのは、宮廷にいるっていう意味だよ。この部屋にっていう意味じゃない」
レンはケイの事が好きだと認めたのに、なぜケイから離れようとするのだろう。ケイはレンに自分の側を離れて欲しくはなかった。
「レン。レンのために部屋を用意するから、宿舎を引き払ってそこで寝泊まりしてくれないか?」
「え?」
レンは驚いて目を丸めた。
ケイはもう、直接的に言うしかないと思った。
「私はもうレンを離したくない。側にいて欲しい。それに、いくらなんでも、皇帝が宿舎には渡れないだろ?」
するとレンは、悟った様子で顔を赤らめた。
「下級官吏が部屋を与えられるなんて、おかしいだろ」
「事が落ち着いたら、レンは私の恋人だと知らしめるつもりだ」
「え?」
「レンには申し訳ないけど、今までのようには働けなくなると思う」
レンは黙っていた。これまでの生活が変わってしまう事には戸惑いがあるのだろう。しかし、ケイとレンは想い合っているのだ。もう何も、二人を妨げるものはない。それなら、一刻も早く、レンと心と体を通わせたかった。
ケイはレンを抱きしめ、
「今日はここで寝よう」とレンに囁いた。
本当は、レンとの初夜は入念に準備をしたうえで迎えたかったが、今のケイにそんな余裕はない。
しかし、レンはケイを引き離し、
「待って」と言った。
「だめだ。待てない」
「ケイ」
レンは強い視線でケイを見据えて言った。
「ケイの言うとおり、宿舎は引き払って、ケイの用意した部屋に移る」
レンの言葉に、ケイは顔を輝かせた。
「本当に?」
「ただし、リョクを助ける事ができたらだ」
「え?」
やはり、レンはリョクの事を優先するのだと、ケイはショックを受けた。
「約束どおり、リョクを助けてくれたら、ケイの言うとおりにするし、何でも言う事をきく。ケイの好きにしていい」
「好きにしていい……?」
レンの過激な発言に、ケイの脳裏に様々な妄想が思い浮かび、思わず唾を飲み込んだ。
「だけど、それまでは俺はこれまでどおりにする。宿舎で生活するし、都省でもこれまでどおり働く」
「分かった……」
ケイは内心渋々ではあったが、頷くしかなかった。