色葉ひたち
幻の初恋 番外編 ~ケイ視点~
第5話 失恋
宮廷へ戻ると、コウに激しく責められたが、今のケイには全くどうでもよい事だった。ケイはしばらくの間、居所の寝室に籠り、寝台に顔をうずめた。
《レンは私が一番ではないのだ。レンには私よりも大事なものがある……》
それでも、ケイはレンをどうしても手に入れなければならなかった。
《このままでは本当にレンの心が離れてしまうかもしれない。もう二度と失うわけにはいかない。まずはこちらが折れて、もう一度少しずつ、レンの心を引き寄せなくては》
ケイは起き上がると、寝室を出てコウを呼び、レンが戻って来たらすぐに呼ぶように命じた。
ケイはいつもの部屋の長椅子に座り、レンがやってくるのを待った。
やがて、部屋にレンが入って来た。昨晩、あんなに冷たい態度を取られても、レンの姿を見ると、愛おしくて仕方なくなる。
「レン、来て」
ケイがレンを呼ぶと、レンは言われたとおり、ケイに近付いてきたが、長椅子には座らずに立っていた。
ケイは、
「早く座って」とレンを促したが、レンは立ったままだった。
ケイは内心傷つきつつも、
「疲れているのか? それとも、昨日の事を怒っているのか?」とレンに尋ねた。
レンは無表情で、
「ごめん。ちょっと疲れてる。早く帰って休みたい」と答えた。
レンはまだ怒っているのだとケイは思った。
ケイは立ち上がり、レンに歩み寄って、レンを抱きしめた。
「ごめん。でも、どうしても顔を見たくて」
少しでも、自分の気持ちをレンに伝えたかった。
しかし、レンはケイを押し退けるようにして離れ、ケイとは目を合わせずに、
「しばらく来られないから。呼ばないで」と言った。
ケイはまずいと思った。レンは確実に、ケイを遠ざけようとしている。
ケイはレンの腕をつかみ、レンの顔を覗き込んだ。
「本当にごめん。もうレンを束縛するような事はしないから。だから、許して」
それでも、レンの表情は変わらなかった。レンはケイの手をつかみ、自らの腕からケイの手を離した。
「明日から忙しいから、来られない。だから、呼ばないでくれ」
レンはそう言うと、ケイに背を向け、部屋を出て行ってしまった。
「レン!」
ケイはレンが出て行った扉を、しばらくの間茫然と見つめていた。
「どうしたらいい……」
ケイはつぶやいた。
翌日以降、レンが部屋にやってくる事はなかった。ケイはレンに会いたくて仕方がなかったが、レンを呼んだら逆効果だと思い、会いたい気持ちをぐっと抑えた。
それから七日後、宮廷で園遊会が開かれた。園遊会は年二回、宮廷の庭園で開かれる。貴族や官僚を始め、高名な学者や有識者も招いて歓談をする催しだ。
ケイの元には、次々と挨拶の人が訪れたが、やがて、
「陛下」と声を掛けられた。
そちらに目をやると、そこにいたのはジョ・ハクとその家族だった。その一行を見て、ケイは我が目を疑った。なぜか、ジョ家と共にレンがやってきたからだ。しかも、レンはリョクと手をつないでいる。ケイの心臓は大きく脈打った。嫌な予感がする。
ジョ一家が頭を下げ、ケイに挨拶をした。ケイは心ここにあらずで、レンの事が気になって仕方がなかった。レンは視線を落とし、ケイとは目を合わせない。
ケイの隣にいた皇后が、
「早速一緒にいらっしゃったのね」とリョクに声を掛けた。
それを聞いて、ケイの心がざわついた。ケイは皇后に視線を向け、
「どういう事だ?」と尋ねた。
皇后はどこか嬉しそうだった。
「驚かれると思いますわ。お兄様、陛下にご報告されてはいかがですか?」
皇后に促され、リョクがケイに、
「このような場で恐縮でございますが、ご報告させて頂きます」と切り出した。
「なんだ?」
ケイの胸騒ぎは増々強くなった。
リョクが真っすぐに、そして堂々とケイに向かって言った。
「私は、ここにいるソウ・レンと、恋人として交際させて頂いております」
その言葉に、ケイは頭を殴られたような衝撃を受けた。
「なんだって?」
何を言い出すのだとケイは思った。目の前にいる男は平然として爽やかだ。ケイはその様子に強い憤りを覚えた。
ケイの様子を見た皇后が、
「驚かれるのも無理はありません。私も兄から初めて聞いた時は驚きました。これまで色恋沙汰の全くなかった兄が、まさか男性を好きになるとは思ってもみませんでしたから」と言った。
ハクも、
「お恥ずかしい限りです。ジョ家の嫡男ともあろうものが、同性と恋愛とは。ただ、本人も嫡男としての責任は果たすと申しておりますし、ソウ君については本気で、絶対に譲れないと申すものですから、私どもも折れた次第です」と言った。
ケイの耳には、皇后の言葉もハクの言葉も全く入って来なかった。ただ、レンを見つめて、
「嘘だろう?」とつぶやいた。
皇后がケイに、
「陛下、どうか偏見をお持ちにならないで下さい。妹として申し上げさせて頂きますが、兄は本気でソウ・レンの事を愛しているようなのです。ですから、温かい目で見守って下さい」と言った。
「もういい……」
ケイはもう耐えられなかった。取り繕う事も出来ず、一同に背を向け、その場を去った。
「陛下」
皇后が慌ててケイの後を追って来た。
ケイは振り向かずにどんどん歩いて行った。その間も、様々な人に挨拶をされたが、全く耳に入って来なかった。
皇后が、ケイを見て、
「もしかして、お気を悪くなされたのですか?」と心配そうに尋ねてきた。
ケイは、
「いや。私にはそなたの兄の事など関係無い。ただ疲れただけだ」と冷たく答えた。
園遊会終了後、ケイはコウにレンを呼びに行かせた。嫌がられるかもしれないが、直接話を聞かないわけにはいかない。
レンは部屋に入ると、ケイから遠ざかって立った。
「こっちに来て」
ケイが言っても、レンは近づいて来ようとはしない。その様子に、ケイの胸は痛んだ。
ケイはレンに、
「今日のあれはどういう事?」と尋ねた。
レンは無表情のまま、
「見たとおりだよ」と答えた。
「ジョ・リョクと恋人だなんて、嘘なんだろ? この前、友だちだと言ってたじゃないか」
「この前まで友だちだったけど、恋人になったんだ」
レンの口から直接出た「恋人」という言葉に、ケイはショックを受けた。
「嘘だ」
ケイはレンに近づこうとしたが、レンはその分ケイから遠ざかった。そんなに嫌なのかと、ケイは悲しくなった。
レンは静かに、
「ほんとだよ」と言った。
なぜ急にこんな事になったのかと、ケイは考えを巡らせた。タイミング的にも、先日のトンサン市の祭りの日に何かあったとしか考えられない。ひょっとすると、レンはあの日、リョクと泊まったのではないかという疑念が浮かんだ。
「まさか、あの時……。あの日、実家に帰らなかったのか?」
ケイはレンにそう尋ねた。
レンは、ケイを見据え、
「ああ。帰らなかった。あの日をきっかけに、俺とリョクは恋人同士になった」と答えた。
どうしてそんな事が言えるのだろうと、ケイは怒りを覚えた。あの日、約束を破り、他の男と一夜を共にして、ケイを裏切ったと、レンは言っているのだ。
それでもまだ、信じたくなくて、
「嘘だ」とケイは言った。
「ほんとだよ」
「じゃあ、どうして、ここで私とあんな風に過ごしたんだ? 私を好きだからじゃなかったのか?」
「ケイは皇帝だから、逆らえなかったんだ」
ケイは血の気が引く思いだった。そんな事を考えてもみなかった。レンはケイを、対等の人間として見てくれていると、そう勝手に思い込んでいた。しかし、よく考えてみると、自分は皇帝なのだから、レンのみならず、誰もケイに逆らう事などできないのだ。
「レン、私はレンが好きなんだ、子供の時からずっと。レンも私の事を好きじゃなかったのか?」
「前にも言ったけど、子供の頃はケイを女の子だと思っていたし、皇帝になる人だなんて知らなかったから。だけど、今は違う」
「ジョ・リョクだって、男じゃないか。どうして私はだめなんだ?」
「皇帝だから。ケイには皇后陛下だっているだろう?」
あくまでケイを皇帝だというレンに、ケイは悲しみと憤りを覚えた。そして、
「あれは政略結婚で、ただの飾りだ!」と声を荒げた。
レンが目を伏せ、
「ケイ。もう俺の事は忘れて欲しい。もうここにも呼ばないで欲しい。頼む」と、ケイに懇願した。
「いやだ。レンじゃなきゃだめだ」
「お願いだ。俺はリョクを裏切れない」
レンが大切に想う人は、自分ではなくリョクなのだと言う事実に、ケイは胸が張り裂けそうだった。
「レン。本当に? 本当にもう、私の事は好きじゃない?」
「好きじゃない。ごめん」
レンはそう言うと、ケイに背を向け、部屋を出て行ってしまった。
失った、とケイは思った。この世で一番手に入れたいものを、自分は今失ったのだ。ケイはその場に崩れ落ち、床に座り込んだ。