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幻の初恋 番外編 ~ケイ視点~

第1話 地獄から天国へ

 ケイは前皇帝の第五皇子で、現皇帝の弟に当たる皇子だ。母は側室の中でも身分が低く、生まれながらに、皇子でありながら皇帝の座からは遠い存在だった。
 しかし、その境遇がかえってケイを皇帝の座に近付けることがあろうとは、ケイは思ってもみなかった。ケイの母には後ろ盾が何もなかった。それは言い換えれば、どの派閥にも染まっていない存在という事だ。ケイの存在は、宮中の勢力図を一新しようという者たちにとっては都合の良いものだった。
 ケイ本人が知らないところで、ケイを持ち上げようとする勢力が動き始めていた。その勢力が徐々に力を付けていくと、ケイの周りに不穏な空気が漂うようになった。ケイの食事の毒見をした女官が死に、外出をすればどこからともなく矢が飛んできた。
 ケイは内心、迷惑だと思った。どうしてそっとしておいてくれないのかと、腹立たしさを覚えた。
 ある日、ケイの居所に見知らぬ男たちが現れた。男たちはケイに、ケイは命を狙われているから、身を隠すようにと告げた。ケイは男たちを冷たい目で見降ろした。
「それは、そなたたちのせいではないか」
 男たちは恐縮した様子でケイに頭を下げた。
「殿下の身を危険に晒し、心苦しく思っております。ですが、必ずや、私どもが殿下を皇帝にし、現在宮中で私欲を肥やす者たちを根絶やしに致しますゆえ、どうか今はご自身の安全のためにも、我々に従っては頂けませんでしょうか」
 ケイはため息をついた。こんな事をいいながら、この者たちもどうせ自らの保身や出世の事しか考えてはいないのだろう。ケイにとってはどうでも良いことだし、巻き込まれるのは迷惑でしかなかった。
 そうして、ケイを逃がすための準備が始まった。ケイは女の子の服を着せられ、荷物の中に隠されて宮廷を出た。我が身のみじめさに、ケイは悔しくて唇を噛んだ。
 ケイを乗せた荷車は、それから半日以上進み続けた。いつまでこうしていなければならないのだろうと思っていると、急に隠れていた箱の蓋が開けられた。箱から出されると、そこに一人の中年の男が立っていた。男は実直そうな面立ちをしている。男がケイに頭を下げた。
「私はトンサン市の官僚でソウ・テツと申します。これから殿下の御身は私が預からせて頂きます」
 ケイは、ソウ・テツと名乗った男に連れられて街を歩いて行った。自分はどうやら、トンサン市に連れて来られて、ここに隠れる事になったらしい。トンサン市は都とは違い、街といっても、民家が連なる集落で、あちこちに畑があり、のどかな田舎だった。
 道中、テツがケイに言った。
「殿下には、我が家のような狭くむさくるしい所に身を置かれることになり、大変申し訳なく思っております。家族には、殿下の素性は明かせませんため、無礼な言葉遣いや態度を取らざるを得ませんが、どうかご容赦下さい。我が家は、私と妻、男の子の兄弟三人の五人家族です。本当に狭くて申し訳ありませんが、どうかしばらくの間ご辛抱下さい」
「……分かった」
「殿下の事は、どのようにお呼びすれば良ろしいでしょうか?」
 ケイというのは本名だが、皇族の名は他人から呼ばれる事はほとんどない。これから、一般庶民から名で呼ばれる事になるのかと思うと、不思議な気持ちと、腹立たしい気持ちを覚えた。しかし、偽名で呼ばれるのもそれはそれで気持ちが悪かったので、ケイは本名を伝える事にした。
「『ケイ』と呼べ」
 ケイが答えると、テツが、
「かしこまりました」と答えた。
 やがて、ケイはテツに連れられて、質素な家の門をくぐった。テツが言っていたとおり、五人で住むにはかなり小さな家だ。
 ケイはテツについて家の中に入った。入ってすぐが居間で、家族がテツを待ち構えていた。
「おかえりなさい」
 テツが言っていたとおり、男の子が三人いた。子供たちはみな、ケイの方を不思議そうに見つめている。
 テツは家族に、
「この子はケイだ。事情があって、しばらくの間、うちで預かる事になった」と言った。
 家族は驚いた様子だったが、父の言う事は絶対なのか、素直にそれを受け入れた様子だ。
 テツが、男の子のうちの一人に目を向け、
「レン。ケイはレンの一つ上で、一番歳が近いから、よく面倒を見てあげなさい」と言った。
 レンと呼ばれた子が、「はい」と答えて頷いた。澄んだ目をした子で、いかにも素直そうな顔立ちをしていた。
 それから、ソウ家の家族と共に食卓を囲んだ。ケイは食卓に並んだ料理を見て、気が滅入った。ソウ家の夕食はかなり質素で、色味が寂しく、見た目で食欲が湧かない。食べた事の無い料理を前に、ケイは怖くてほとんど手を付ける事ができなかった。
 寝室もとても狭かった。子供たち四人が狭い部屋に横になる。体が付きはしないものの、それぞれがとても近い距離にいた。こんな状態で眠った事など経験がなかったから、ケイは眠れなかった。寝がえりをうちたくても、それもままならない。ケイはみじめな気分になった。
「眠れないの?」
 ケイの様子に気付いたのか、後ろにいたレンが声を掛けてきた。
 ケイは「うん」とだけ答えた。
「やっぱ、狭いよな」
「慣れないから」
「そっか。夕飯全然食べてなかったけど、お腹減らない?」
「大丈夫」
「うちの飯、まずかった?」
 随分直球な言葉で訊いてくるのだなと、ケイは思った。レンは、食事を残したケイの事を快く思っていないのかもしれない。
 ケイが答えずにいると、レンが、
「いいよ、ほんとの事言って。何なら食べられそうかなって思ってさ」と言った。
 ケイは仕方なく、
「慣れれば大丈夫だから」と答えた。
「そっか……。ケイは都から来たの?」
 何も話は聞いていないはずなのに、レンはどうしてケイが都から来たと思ったのだろう。雰囲気で分かるものなのだろうか。それにしても、あまり色々と話すものではないとケイは思った。
 レンが申し訳なさそうに、
「ごめん。色々訊いて」と言った。
 気を遣わせてしまったのかもしれないと思い、ケイは、
「ううん」と言った。
「疲れてるよな。おやすみ」
「……おやすみ」
 翌日以降、レンは近所の子供たちと遊びに行く時に、必ずケイを誘ってくれるようになった。父に、面倒をみるように言われたから、それを守っているのだろう。別に一緒に行く必要もないのだが、他にやる事もなかったから、ケイは毎回レンたちについて行った。
 レンとしばらく接するうちに、レンは本当に素直で擦れていない子なのだという事が分かって来た。田舎の子は皆こんな感じなのだろうか。ケイはそんな風に思った。
 ある日、ケイが書物を読んでいると、レンが興味深そうに見ていたから、書物を貸してみた。ソウ家の子たちは、田舎の子にしては珍しく、読み書きができるようだ。テツはしっかり子供たちを教育しているのだなと、ケイは感心した。
 レンが書物を読むスピードはとても速かった。それに、内容の理解力が卓越している。ケイは、レンは相当賢い子なのだと気付いた。そして、賢いだけではなく、物の考え方に道徳心が染み付いていて、心がきれいな子であることが分かってきた。
《レンは信用できる》
 信用できる人間というのはそうそういない。見つけたなら、必ず自分の味方にするべきだとケイはかねがね考えていた。
 それから、ケイはレンと共に出掛ける機会を増やした。そして、レンの言動を注意深く観察した。見れば見る程、レンのすべてがケイの心をつかんだ。これまで、これほどまでに自分の手元に置いておきたいと思う人間に出会った事はなかった。ケイは、レンをどうしても手に入れなければならないと思うようになっていった。
 ある日、家の軒先で話し声がするので、ケイは部屋から軒先の方を覗いた。すると、そこにレンが座っていて、近所の女の子と楽しそうに話をしていた。女の子がレンの頭をなで、レンが女の子に笑いかけている。
 それを見た瞬間、ケイの心に激しい怒りが湧いてきた。自分以外の人間に、レンが心を開くのは面白くなかった。自分以外の人間が、レンに触るのも嫌だった。
 翌日、ケイはレンに花を見に行こうと言って誘った。レンと手をつないで歩いて行くと、近所の子たちがケイとレンを冷やかして来た。ケイは、その様子を昨日の少女が見ている事に気付いた。
《レンは私のだ》
 ケイはわざとその少女にも聞こえるように、
「私たち、愛し合ってるから、誰も私たちの邪魔しないで」と宣言した。
 唖然とする子供たちを尻目に、ケイはレンの手を引いて、歩いて行った。
 目的の花の木の下に辿り着くと、ケイはレンと向かい合った。花びらが二人の頭上に降り注ぐ。
 レンが不思議そうな表情でケイの事を見つめている。先ほどのケイの行動が理解できずにいるのだろう。レンの大きな透き通る目を見つめていると、吸い込まれそうだった。今目の前にいる人は、この世で一番きれいな人だ。
 ケイはレンに心を捕らわれ、レンに顔を近づけると、口づけをした。レンは抵抗せずにケイの唇を受け入れた。夢の中にいるようだった。都にいる時は暗く淀んで見えていた世界が、今は明るく美しいものに見えた。ケイの心はもう、レンのものだった。そして、レンの心もケイのものだと思った。
 ケイとレンが恋人同士だという噂は、あっという間に街中に広まった。ケイにとってそれは寧ろ狙いどおりだった。
 ある日、ケイはテツに話があると呼び出された。
 家から離れた人気のない場所まで来ると、テツがケイに、
「お呼び立てをして申し訳ございません」と頭を下げた。そして、言葉を続けた。
「最近、殿下とレンが恋人同士だという噂が街中に広まっていると耳に致しました。レンとご一緒に行動される事が多く、殿下にはご気分の悪い思いをさせてしまい、申し訳なく思っております」
「…………」
 テツはこの噂が本当かどうかを探るために自分を呼び出したのだろうと、ケイは察した。
「ただの噂ではありますが、殿下がどうお思いか伺っておきたく思い、お呼び立てした次第です」
「噂は本当だ」
 ケイはためらわずに答えた。するとテツが、驚きと困惑の入り混じった表情を浮かべた。
「まさか、殿下はレンと恋仲だとおっしゃるのですか?」
「そうだ」
「…………」
 テツが茫然とした様子で黙った。いくらテツが恩人でも、レンの事だけは譲れない。
 ケイはテツに、
「レンを私にくれ」と冷静に言い放った。
 テツは慌ててケイに詰め寄った。
「殿下。将来レンをお側に仕えさせたいとおっしゃるのなら、もちろん喜んでそうさせて頂きます。ですがそれは、殿下にお仕えする官吏としてです」
「違う。私はレンを愛している」
 ケイが言うと、テツが必死な様子でケイに訴えた。
「殿下! レンは男の子です。一体殿下はレンの事をどうするおつもりなのですか?」
「一生側において愛するつもりだ」
「殿下……。畏れながら、レンは私の大切な息子です。殿下の愛人にとおっしゃるのなら、耐えられません」
「愛人……か。世間的にはそのような立場になるのだろうな」
 ケイの言葉に、テツは茫然とした様子で立ち尽くした。

© 2020 色葉ひたち

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